2012/08/23

8月21日 村上


今日は1日東京に出張でした。
以前に告知した東京都美術館での展示の搬出のためです。

搬出は昼過ぎには終わり、夜のバスまで暇になってしまったので、一番東京を感じるところに行ってみようと思い渋谷に行ってきました。
とても久しぶりに渋谷を歩きました。駅前のスクランブル交差点は相変わらずたくさんの人が行き交っていて、そしてとても蒸し暑かったです。行き交う人のほとんどは若い人たちで、みんなとっても"お洒落"でした。とくに女の子たちがとてもおしゃれに見えました。でも、みんな汗をかいていて、ちょっと苦しそうに歩いていました。
これだけたくさんの女の子たちがものすごい人ごみの中、汗をかきながら歩いてる様は、なんていうかとっても「不自然」でした。

東京って、いるだけでこういう違和感とか疑問とかがぼろぼろでてくるところです。比べてみると、×日町周辺の環境はとても「自然」なのかもしれないと思います。近所の人はほとんど農家で、まほろばの里では若い人が年寄りの面倒をみてる、事柄たちは大きくみると、あまりにも「自然」だったから、先日来てくれた津田さんと渡辺さんは「なにもつくれなかった」のかもしれないと思います。
この二人は、作品をつくる現場のリサーチから着想して制作する人たちです。二人は「×日町」の中から作品を生み出そうとしました。でも渡辺さんは最終的に「×日町はなかった」と言っていました。僕たち6人は×日町という"地域社会"ではなく、"十日町"や"まほろばの里"に吸収された個人個人のような存在になっているのだと思います。そして「まほろばの里」も長く滞在していると、集団というよりは"個"の集まりとして見えてきます。職員ひとりひとり、利用者ひとりひとりの"顔"がわかるようになってきたからです。
だから×日町もまほろばの里も個が集まっているだけで、なんていうか"集団"(ここでいう集団とは「"空気"で全体の方向性が変わるような不特定多数のひとたち」のような意味です)は東京にあるんじゃないかという気がしました。東京はおおきな「集団」で「団体客」のようなものなのだと思います。そしてその集団に属しているのがまほろばの里のみんなであるし、僕たちなのかもしれない。

なんだか何を言ってるのかよくわからなくなってきましたが、渋谷でそんなことを考えていました。

あ、でももちろん×日町にいて何も感じないとかそういうわけではなく、いまぼくはまほろばの里の中に自分の家を突っ込んで生活していて、内部の事がわかってくると、いろいろと面白い事を発見できます。

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